< はじめに >
生きてきた重みがどこか鬱陶しい、と感じていたとき、ふと「140字小説」という言葉が目に留まった。
削りに削って行きつくのは何処? 量的な重みから逃れたい、という思いで飛び込んでみた。
それから一年。 カーテンから漏れ入る朝日に手を引かれ、空高く舞い上がる。時空を越えていく肌触りに驚悸する。
存在したこと
男はひたすら歩き続けた、ただ黙々と。軈て、白髪を振り乱し足もすっかり萎えて気がついた。行き着く処など何処にもないことを。ここはメビウスの帯だから。時は周りを砂のように流れ落ち男を埋めた。虚空を掴む手も視界から消え失せた。静寂が残り、それが辛うじて何かが存在したことを物語っていた。
磁器とピアニスト
「磁器ってエロチック」と彼女は呟き、傍らの青磁の器を胸に抱き抱えた。そのか細い指で長い細首をススーッと撫で上げる。見ている僕にもヒンヤリとした磁器の質感が指の温もりの向こうに感じられた。四十年後の今、その時の情景が甦る。開け放された窓から風が吹き寄せた気がした。私は此に居るのと。
ことの始まり
眼を覚まし鏡を覗くと碧眼のアリサがいた。亜里沙でなかった。金色の髪が眩く叫び、鏡の中の世界を黄金色に染めていた。鏡の中のアリサからは闇に沈む亜里沙が見えていた。いつからだろう、鏡が心を写し始めたのは?心の奥に眠る勝手な妄想はこうして生を得た。新たな物語と引換えに新たな闇が生まれた。
メロディー
僕は忘れない! 君達のことを!白い顔、黒い顔、ホクロの児もいたね。背伸びしてたり、羽のある児も。夢中になると、僕の手を握ったまま、五本のレールから飛び跳ねたね。おかげで僕も暫し抜け出せたもんだ、不自由な身体から。何処に向かうかは問題じゃない。一途に、無心に、感じる為だけに生きれた。
残影(1)
悲しい時も嬉しい時も、女は鏡に向かっていた。恨み辛みも歓喜の声も、鏡は黙って聞いていた。軈て、女が居なくとも姿形を映すに至った頃、女は男に騙され命を絶った。持ち主を失い、鏡は古家具店の店先に立ち並ぶ。店前を男が通る度に目で追う鏡。視線を感じ見つめ返すと、物憂げに薄っすら微笑んでくる。
残影(2)
心優しい少女だった。校舎の片隅の小さな花壇、来る日も来る日も水遣りを欠かさず、花に語り掛けた。春雨煙る夕暮れどき、考え事をしながら前を通り過ぎた際、視界の端に傘も差さずに佇む少女を、いつも通り見掛けた。初七日なのだろう。小雨に打たれた勿忘草が、青黒い影を曳いて、寂しそうに佇んでいた。